財団について

ご挨拶

東京で鍛造の技を磨き、生まれ故郷の石川県羽咋市で平鍛造株式会社を創業した父、平昭七は強烈な気迫と波乱に満ちた生涯を見事に生き切って、平成29年の初夏、84歳で他界いたしました。
父が手掛けた鍛造リングは、その精密さと優れた強度によって同業他社の製品を圧倒し続けました。父が精魂を傾けた鍛造リングが市場を席巻したことに伴い、日本の産業界には「鍛造の世界に平あり」とする高い評価が生まれ、お客様から「品質世界一」と称賛された栄誉は、孤高の技術者であった父を奮い立たせたのに違いありません。
壮年時の父は、正義感と情熱とで血気にはやる歳月を刻んだ、型破りな人でした。それゆえ、おおやけの顕彰を受ける機会に恵まれることはありませんでした。
それでも幸いなことに、晩年、数多くの寄付活動に心を砕いた父の心持ちは「平昭七らしく生き抜いた」とする、清々しさであふれ、「無冠の王者」「天下無双」の矜持を自らの胸の内に秘めていたように見えました。
そんな父が残した会社は平成30年、創立50周年を迎えます。
この節目に、卓越した父の技術力を注ぎこんだ鍛造機などを有形無形の遺産として引き継ぎ、裸一貫でのし上がった父が全身全霊で残したこの会社にさらに磨きをかけて参ります。
かけがえのない会社を残してくれた父への感謝は、それでもなお尽きることはなく、改めて、「故郷のため、地域のために」と人生の幕を閉じる直前まで父が続けた寄付を今後も継続し、平昭七の遺志を形として世に残すため、この度、公益財団を設立いたしました。
父の個人資産を投じた当財団は、父の偉業を記念すると同時に、地域の皆さまの幸福につながる寄付活動を通じて社会貢献を目指して参りますので、益々のご厚誼とお力添えをお願い申し上げます。

平成30年3月吉日  代表理事 平 美都江

平昭七について

平 昭七
たいら しょうしち

平 昭七 の人物像

 平昭七は昭和7年6月、石川県能登半島の中ほどにある旧羽咋郡北邑知村(現在の羽咋市)で生まれた。小さな村でたった一軒の鍛冶屋を営んでいた父親が病に倒れ、経済的に恵まれない少年期を過ごした昭七は、辛い暮らしに耐えかねた母の「大金持ちになってくれ」という悲痛な言葉を胸に東京へ。
 上京した昭七が手にしていたのは下着をくるんだ風呂敷包みだけだった。それでも大志を抱いてさえいれば怖くはなかった。右も左も分からない大都会の東京で、昭七が最初に就いた仕事こそ、焼いた鉄をたたいて成型する鍛造の下仕事であり、この巡り会いが一徹で一途な人生のスタート台となった 。
鍛造の現場は腕一本で勝負する男の鉄火場だった。昭七に仕事を教える職人など誰もいない。しかし、昭七の五体には、強い腕っぷしで鉄と向き合い続けた父親譲りの「鉄人」の血が脈打っていたのだろう。
若くして技を磨きあげ、東京都内の鍛造工場を転々と渡り歩いた昭七は、やがて、精緻で速い独自の鍛造技術を完成させると、都内で自分の鍛造工場を切り盛りするまでになった。折しも、高度経済成長の時代、小さな町工場が密集する都会の住宅地では、さまざまな公害が問題視され、昭七もまた、鉄を鍛える大きな音が騒音だとして移転を余儀なくされ、これを機に昭和43年、生まれ故郷の羽咋へ戻って平鍛造株式会社(現在の羽咋丸善株式会社)を創業した。
昭七が得意としたのは、超大型鍛造リングの製造だった。ベアリングの内輪、外輪を鍛造する技術は創業当時から優れ、極めて高い精度で製造されるリングは、究極の真円に迫ってなお、取り代が少なく、研磨までの工程が短縮されることで、仕事を発注する大手ベアリングメーカーや建設機械メーカーにとっては、平鍛造のリングをいかに確保できるかが、それぞれの社業をも左右した。
どんな複雑な成型が注文されようと、自分でオリジナルの金型を作り上げ、短い期間のうちに納品してしまう昭七の鍛造リングは、ベアリングばかりでなく、ショベルカーの操縦席の旋回台座や風力発電の巨大な風車のベアリングのほか、石油掘削パイプの継手といった幅広い分野にまでおよんだ。気が付けば、昭七は発展を続ける日本産業界を下支えする、余人に替えがたい「天才鍛造職人」として巨大な存在感を示すようになっていく。
大企業の下請けという立場でありながら、いつしか平鍛造の周囲には大企業の工場が相次いで進出し、羽咋周辺に平鍛造を核とする企業城下町が生まれたことは、小さな町工場がもたらした奇跡として語り継がれている。
かくも隆々とした成長を経て、平鍛造は堂々たる無借金経営を成し遂げたものの、ともすると昭七の破天荒な言動は、発注元との間で、受発注をめぐる行き違いを生じさせた。「同業の、どんな会社も作れない鍛造リングの加工賃の安さが許せない」「誰も太刀打ちできない自分の仕事はもっと評価されていいはずだ」。どれだけ理不尽であろうと、仕事を出す側と下請けとして仕事を受ける側の間には不動の力学がある。昭七が次第に疑心暗鬼や不満を胸の内に募らせ、やがて脅し文句にも似た「廃業」を口にし出したのも、自社製品の超絶な仕上がりを誇りとし、「鍛造屋一代」の半生に揺るぎない自信を秘めていた証左に違いない。
晩年の昭七は、発注側の大企業が後継社長にと望んだ長女の美都江(現在の社長)に社業を譲って、自らは無農薬果樹の栽培を新たな生きがいに過ごした。
その人生は激しく、波乱に満ちた歳月に彩られたが、仕事を愛し、従業員を愛し抜く生き方に濃淡やブレはなく、「目指すは世界一」という強い信念に貫かれた「巨星」のごとき生涯だった。

ノンフィクション作家  細井 勝

PAGETOP